収蔵庫のパース図

2022.10.08

今まで書いたスケッチを整理していたら懐かしいものが出てきました。

日付を見てみると平成12年と書かれているので2000年。今から22年前のことですね。

その頃はというと、まだ今の工房がある場所ではなくて、もう少し駅から離れた細長い倉庫を改装して工房にしていたのです。父が懇意にしていた大工さんが背の高い工房内にロフトのように事務所やちょっとした打ち合わせスペースを設けてくれて、お客さんが来ると、柱をゴンゴンッと叩くと事務所に響くので、「おっ、誰か来たなっ。」と小窓から顔を出すというなんともメルヘンチックな工房でもありました。

この頃の私は、父に言われてこの仕事を手伝い始めて7年ばかりが経った頃で、ちょうどこの数年前に2年間通っていた夜間専門学校を卒業して、家具(と言うよりか当時は店舗什器、オーダー家具なんて言葉はまだなかった頃です)の制作ばかりしていた仕事のやり方から、父から譲ってもらった製図台(A2サイズの天板の両端にワイヤーが張ってあって、平行定規がひとつ付いているだけのシンプルなもの)を使って徐々に図面を描き始めて家具の設計などを始めた頃でもありました。

当時社内には大きなブラウン管のモニターになっているパソコンはあった(よし、これからはパソコンだっ!って意気込んでいた父はこれには全く触らず・・)のですが、まだCADというものが全く分からなくて、この製図台に向かっては設計士さんや内装会社さんからくる図面を自分たちで作れる形に作図し直していました。

下りてくる図面って、50分の1の展開図だけだったり、ミニマルなデザインすぎて形が成立しないものが当時は多かったし、マンガ(当時スケッチのことをみんなこう呼んでいましたね)だけで形の細部が分からないものも多かったのです。

もちろん、ウェブサイトなんてものもなかったものですから、(ホームページというものを見よう見まねで初めて作ったのもたしかこの年の暮れくらいでしたね。)お仕事のお付き合いはこのように専ら店舗の設計士さんや内装屋さんから青焼き図面やたくさんのFAXが届くのでした。

パソコンは鎮座する漬物石です。

そんな時に「ダイスケ、今度長いお付き合いしている博物館の学芸部長さんから相談を頂いたんだ。コンペだって言うからこういうものを作ってくれよ。」と父。

それは、博物館の収蔵庫を数年かけて整理する計画で、金属製の棚では収蔵物の保管に支障が出る可能性があるので木製に変えてゆく、というものでした。

そこで、どこに何を収納するかの想定が分かりやすいように収蔵棚の図面だけではなく、立体的にわかるような絵がほしいということだったのです。

当時通っていた専門学校に入校する時の条件として、「製図学校を出ていること」というものがあり、同校で事前に開いている製図科に3ヶ月通ったおかげで手描きの図面のきちんとした描き方はどうにか習得していて、吉村順三さんの軽井沢の山荘を題材にパースを描く授業もありましたので、どうにかそれなりに描けるようになっていたと思っておりました。

でもコンペとなると、その枚数を描くことがなかなか大変で、収蔵庫全体のパースやらそれぞれの家具のパースを製図ペンの芯先をくるくる回しながら、夜な夜な描いていたように思います。

ペン先が丸くなってくると隣の線とでつぶれちゃって、消しゴムでそっと消していると、さらに隣の線も消えちゃったりして、あーもう、あーもうって言いながらやっていたように思えます。

この絵の左隅に見えている小さなバツ印が線の基準となる消失点でそこに向かって思いを込めて描いていたのです。

当時はまだアキコと結婚もしていなかったし、実家は工房から車で5分も掛からない場所でしたので、毎晩11時くらいまでやっておりましたね。大変だけれど楽しかったのです。

絵を描くことは好きだったし、大学(すぐ退学してしまったのですが・・。)入試のために1ヶ月通った通った素描教室で陰影の取り方や線の描き方など広く浅く描くことを教えてもらったりしていたので(今見るとシナ合板というよりは石みたいに見えちゃいますが)、家具の構造を分かってもらえるようにといろんな思いを込めながら描いておりましたね。

おかげさまでコンペに通って、それから数年間はその収蔵庫に通う日々を送ったのは懐かしい思い出です。もうとっくに学芸部長さんは引退されてのですが、今でもこの収蔵棚はきちんと活用されていて、こうしてお付き合いが続けられているというのはとてもうれしいことです。

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