父を見送る
2024.01.28
父を亡くして十日程経ちました。
(1枚目の写真は父が亡くなった日の病室からの空です。とても青く澄んでいてきれいでした。)
病院で息を引き取り、自宅に帰り、斎場でお通夜と告別式を終え、お骨に姿が変わり自宅に帰ってきました。
遠洋の船乗りだった父は、乗船してから「自分のことで周りに迷惑をかけるわけにはいかない。」と必ず毎年人間ドックを受け、体調管理を徹底していました。
下船して陸上勤務になった時に胃がんが見つかり、手術をした時も早期に見つけられたのがよかったと思います。ただ、その時から痩せ始め、体力が落ち始めていたのだと思います。
60代頃から肺の調子が悪くなり、通院しながら治療を続けていました。
そんな中でも、ホームセンターで朝早くからのアルバイトをしたり、小型船舶免許の教官をしたり、働きながら過ごしていました。
70代後半になり年齢的な体力の低下もあったのでしょう、短期間の入退院を繰り返す機会も増えました。
今年に入り病状が悪化してしまい、
「呼吸器を外すと3日持たないでしょう。」と言われるくらいにまでなってしまいました。
本人も家族も、お家で一緒に過ごしたいという希望を持っていましたが、その呼吸器は申請しても家庭で管理できるものではないということで、その呼吸器の管理ができるホスピスを探し、見つけて、その施設に移る準備をしていました。その予定日の前日に父は亡くなってしまいました。79歳でした。
10月末に入院して、11月には一度除細動器を使う状態にまでなり、何度も最後を意識しながらの入院生活となりましたが、「1日2人まで14時~17時までの間の20分間のみ」と限られた面会時間の中、母は毎日病院へ通い父のリクエストに応え続け、最後の日まで生きることができたのは、ふたりの命へ思いの強さだったと思います。素晴らしい姿を見せてくれて感動しました。
私に同じことができるのか自信はありませんが、こうして手本を見せてくれたことに意味があると思っているので、その時には頑張りたいと思います。
「今日が最後かも。」と思いながら面会に行っていたので、感謝の思いを伝える機会にできたのはよかったです。
出来損ないの娘で申し訳なかったのですが、私は父の娘として生まれて来れて幸せでした。
口数が少ない父で、怒るポイントと笑いのツボがよくわからなかったので、一緒にいてドギマギすることもありましたが、
色々な経験をさせてくれて、時には厳しく、時にはユーモアを交えながら接してくれて感謝しています。
普段は意識していませんでしたが、父方の親戚の集まりに行った時には、
「あきちゃん、やっぱりダイスケに似ているね。」と言われて、うれしかったのです。父の子なんだなと感じられて。当たり前なのですけどね。
(父の名前もダイスケなのですよ。漢字は違いますが。父と夫の名前が同じだなんて偶然って怖いですね。笑)
親を亡くすと大変なのですね、周りの方から聞いていたお話の意味がよくわかりました。
特に父親を亡くすとすべて名義変更で…。生計同一の同居なら連名で登録できるとか、どうにかならないものかなと思いました。
この後も四十九日の法要と、諸々手続きが続きます。母一人では大変そうなのでお手伝いしていきたいと思います。
結婚して23年経ち、ずっと離れて暮らしていたのだから、喪失感は大きくないのではと思っていましたが、そうではありませんでした。
こうして書いてる時にもメソメソしているので、ただ書いて残すことで少し気持ちが落ち着く気もするので、全く家具やキッチンに関係がありませんが、これから時々父との思い出話が登場すると思いますので、お付き合いいただければと思います。
最後まで読んでいただいた方はありがとうございました。